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会員さんのALS的日常 Vol.1

3月 7th, 2017 | Posted by admin in 作品コーナー

会員さんのALS的日常 Vol.1 ―― 永島修一さん・繁子さん

 平成二十六年九月、いまは松江市となった旧東出雲町にある、ALS協会島根県支部会員の永島修一さん・繁子さんのお宅をお訪ねした。永島さん宅は中海のすぐそばにある。少し歩いて土手にのぼると、中海の向こうに大山が浮かんで見える絶好の景色で、春の時分には桜並木も美しいそうである。

 平成十年、六十歳のときにALSを発症した修一さんは、以来自宅と病院の両方を行き来しながら療養生活を送ってきたが、昨年の冬に体調を崩してからは病院での生活が続いている。この日は、一番身近で修一さんを支えてきている奥さまの繁子さんに、これまでの療養生活についてお話を伺った。突然のお願いにもかかわらず、ALSという情報の少ない病気について、少しでも続く患者・家族のためになればと、快く依頼に応えてくださったことに感謝を申し上げたい。(インタビューと構成 諸岡了介)

1.発症、あちこちでの検査回り

 会社員であった修一さんが最初に体調の変化に気づいたのは、平成十年の一月のことであった。しかし、あちこちの病院で検査を受けるもののなかなか原因が判明せず、ALSであることが分かるまで一年半以上がかかっている。

 ALSにもいろいろなタイプがあるが、修一さんの場合は声の出しにくさという症状が最初に現れた。「ただいまって帰んなんのが、ちょっとおかしいですよね、呂律が」(繁子さん談)。かかりつけ医との相談でもう少し様子をみようということになったが、次第に症状が進んできたので、複数の病院の神経内科でCTやMRIといった検診をしたり、血液の薬を出してもらったり、次には耳鼻咽喉科に行ってみたりしたが、やはり症状は良くならず、原因も分からなかった。

 当時修一さんは仕事をしていたので、病院へ行くスケジュールの都合がつけにくく、どうしても検査と検査のあいだに時間がかかってしまったという。また、患者の側にはよく分からないままに次から次へと検査があって、「私にはあんまり話さんですけど、検査には、えらいときがあったみたいですわ」という繁子さんのお話であった。

 歩くことなどには問題がなかったが、話す言葉がさらに聞き取りにくくなり、昼食に弁当を食べるのにもむせてしまって、仕事仲間からも心配されるようになってきた。そこで平成十一年の春、覚悟を決めて仕事を休み、大学病院に一ヶ月の検査入院をすることにした。

2.病気の告知

 一ヶ月の検査入院を終えた平成十一年六月、はじめは繁子さんに対して、修一さんの病気がALSであるという医師からの告知があった。それまでまったく聞いたことのない病気であり、次第に進行するとのこと、治療法がまだ見つかっていないとのことに驚いたが、医師の説明のしかたが穏やかだったことについて、繁子さんは感謝をしているという。

「今でも印象深いんですけども、穏やかに聞くことができたってことが、私本当にね、ありがたい。私も分からんまんまにハイハイって聞いちょったけど、それはいろいろ思うこともあるけど、びっくりして何も言われんで穏やかに聞いたのか、それはいまだに分かりませんけども、先生の説明が穏やかだったから、それはありがたい」。

 修一さんに対しては、後に改めて医師からの説明があった。「たぶんそれはもう、ねえ、想像できないほどショックだったとは思うんですけども、口に出しては言いません」。内心のショックは大きかったにちがいないが、説明に納得した後は、修一さん・繁子さんともに、「だからもう、それを避けるじゃなくって、それとなく向き合っていくしかしょうがない」という気持ちだったという。

3.病気の進行

ALSの告知があったあと一年ほどの修一さんは、仕事を続けつつ、二週間に一度通院するという生活であった。そのときはまだ、自分で車を運転して病院へ通うことができていた。それでもやはり症状は進み、水などの飲みこみが難しくなってきたので、平成十二年の七月に胃ろうを設置した。

 胃ろうにするのに入院した際には、修一さんが行方不明になり、みんながあわてた愉快な「事件」もあった。あるとき、病室を出て散歩がてらに米子城に登った修一さんが、うっかりそのまま昼寝をしてしまったというのがその真相である。その後、平気な顔をして降りてきたというお話だが、米子城まではかなりの山道なので、そのときもずいぶん足腰が丈夫だったことが伺える。

 しかし、退院から間もない九月、おりから風邪気味だったところに、突然修一さんが呼吸困難になって救急車で運ばれる出来事が起きた。やはり麻痺が進んできたということで、この出来事をきっかけに気管切開の手術を行うことになった。これは痰を取るためのもので、人工呼吸器を着けるものではなかったが、声を出すことはできなくなってしまった。修一さんの場合、ALSと判明してからの進行のペースはかなり早く、繁子さんも「私もあの、その時機はいつかは来ると思っていたけど、案外早くきたもんで。えらい早く来たなと思うけども、それをせんことにはいけんですからね」というお話であった。

4.自宅での介護とその不安

 この段階になると、自宅で介護をする上で、越えるべきハードルが増えてきた。修一さんが気管切開のために一ヶ月入院をしていたあいだ、そこで繁子さんも痰取りの練習をしていたが、十一月にいよいよ自宅に戻るというときには繁子さんもとても心細く感じたという。

「一ヶ月経って、そろそろ永島さん、帰ってもいいんだけどもって言われて。でもこげな、連れて帰って、いま寒うなってるし、風邪ひけばいけんし、不安でしたからね。寒けりゃ着りゃええとか先生は言われるけど、不安ですが。今では慣れて何ともないですけど、ほんと怖かったですけえね。先生どうかもうちょっとみてもらうところをって言ったら、気さくな先生でね、いやどこでも紹介してあげるけどね、永島さんそげすると一生家に帰られないよって言われたんですよ。そこで、先生そげんなこといけません、そげだったらもうちょっと考えますって言って。ほならまあやってみようかってね」。

こんな不安な気持ちの中で、最初は試しとして、昼間一日だけ修一さんを自宅へ迎えるところからはじめた。「そのときはまだ軽いですわね。でも当時はたいへんですよ」。慣れない介護への心配に加えて、自宅での療養生活をはじめる上でたいへんだったのは手続きのことで、会社側の社会保険や介護保険、気管切開で新たに認定された身障者手帳、特定疾患医療交付証など、病院や施設の人に情報を教えてもらいながら準備を進めた。

訪問看護やヘルパー派遣などのサービスも同じように手配を進めた。ALSは珍しい病気だけに、たんに情報が少ないだけでなく、訪問看護ステーションなどのケアサービスを提供する側でも経験がなく、試行錯誤の連続になる。もちろんそれは苦労の多いことであるが、永島さんの場合、入浴サービスの業者が総動員で一生懸命対応してくれるなど、ありがたく感じる場面も多かったという。

5.人工呼吸器をめぐる決断

 気管切開をしたときに医師から、島根県外に住んでいる息子さんたちが帰ってくるお正月に、将来人工呼吸器をつけるかどうか、修一さんと家族で話しあっておいてほしいという話があった。人工呼吸器を装着するかどうかは、ALS患者と家族にとって重い決断の場面である。

 こうして平成十三年のお正月に家族会議が開かれたが、そこで示した修一さんの希望は、装着する必要が一~二年以内に来てしまったら人工呼吸器を着ける、それ以上経ったあとならば着けないというものだった。

「手で自分の思いを書きなったですよ。一、二年で呼吸困難になったら、着ける。それ以上経てば、やめる。そういう自分の思いを、ほんと曲がりくねった字だけども。あとで先生に、主人とこういう相談になったんですって言ったら、これは永島さんの字だねって言って先生が見てござんされて。だけん(後で必要な場面になったときに)スムーズに人工呼吸器は着けられました」。

こうした修一さんの希望に対して、「お父さんがそういう考えなら、そげだね」と家族一同で納得した。繁子さんは、修一さんが絶対に人工呼吸器を着けないと言いだすのではないかと、心配だったという。それだけに「そのときは感謝でした。そういう判断してくださって。私感謝しましたよ。もっと生きてもらいたかったからね。どういう判断しなあだあかって、反面、心配もありました。そういう判断しなって、嬉しかったです」という思いであったそうだ。

6.人工呼吸器と自宅での生活

 家族会議では今後一~二年以内であれば、という想定であったが、そのときは予想よりもずっと早く訪れた。家族会議のあったお正月から一ヶ月ほど経った頃、気管切開後の生活にも慣れてきたところで、修一さんは再び呼吸困難に陥った。そこで、先の希望にしたがって、三月に人工呼吸器を装着することになったのである。

 人工呼吸器に慣れるまでしばらく入院を続けた後、七月に退院してからは四ヶ月は自宅、二ヶ月はレスパイト入院というサイクルの生活に入った。とくに繁子さんが自宅での介護に慣れるまでの期間は、修一さん自身も不安が強く、近所に住んでいる修一さんのご兄妹が手伝いに入ってくれた。

 療養生活のなかで症状が進み、今までできていたことができなくなったときには、とてもつらい。しかし、修一さんは元来前向きなタイプだとのことで、症状が進んだ時ごとに落ち込むことはあっても、いつも「病気になってしまった以上はやる」という積極的な姿勢で臨んできたそうである。十月には病院から紹介してもらった車イスが届き、散歩をすることもできた。

また、デイサービスに通うたびに練習して、伝の心という重度障害者用のパソコン・システムを三ヶ月でマスターし、日記を書いたりメールを送ることもできるようになった。動かなくなった親指がなぜか突然動くようになるという、嬉しい出来事もあった。

 修一さん・繁子さんとも、ご近所づきあいに助けられることも多かったという。「節目節目にはいろんな落ち込むこともあるんだけども、落ち込んだときには皆さんが来て、また、落ち込む間もないほど寄ってくださる。(入院時期が終わって)自宅へ帰るともう、近所の人がみんな来てくださる。ここを通る人が寄ってくださるとか」。

 もちろん、介護生活のなかでは二人の間で、口とパソコンを使った「言い合い」になることもある。しかし、それは夫婦だからこそできる言い合いで、言いすぎることもあったとしても、お互いの発散として大事なことだという。

 逆に、修一さんの方から返事がないときには心配になる。パソコンといってもそう早くは打てないし、患者にとって文字を打つのはエネルギーを使う一仕事である。「めんどうくさいと思うときもあると、打たんようになるですが。打たんと、こっちは何、だいじょうぶって心配になる。なに考えちょうって揺さぶったりしたりしてね」。

 自宅で過ごしているときには、修一さんが家で留守番をし、繁子さんが自宅の畑で花や野菜の手入れをすることもできる。「やっぱり主人ですけね、この家の主ですけんね。おらないけんもの」。

7.病院と自宅の間で

 だんだん症状が進行してくる中で、どうしても修一さんが自宅で過ごせる時間は減ってきている。三年間ほどは二週間ずつ自宅と病院で過ごすというやり方を続けてきたが、激しく血痰が出たことがあってからは、月に一週間自宅に戻るパターンに変えた。

また、当初は正月とお盆は必ず自宅に戻って過ごすようにしていたが、そういうときに体調を崩すと急患に対応してくれる病院や医師が少ないため、それも止めることにした。山陰各地で停電が起きた平成二十二年の大晦日からの大雪のときは、繁子さんもそうして良かったと思ったという。また三~四年前からは、肺炎が怖いので冬は病院で過ごすようにした。

修一さんのコミュニケーション手段については、最後は眉間でパソコンを操作して文章を打っていたが、二~三年くらい前からいよいよ動かなくなってしまった。昨年の平成二十五年十一月に肺の調子がおかしくなって以来、なかなか良くならず、現在は入院を続けている状態である。巨人ファンで、調子のいいときはテレビで野球観戦をするなどして過ごしている。

8.修一さんの思い

 修一さんは、病気の進行をそれとして受けとめながらも、もう一度自分の足で歩きたいという希望を持ち続けてきたという。きっとそれはALS患者に共通の願いだろう。

 また修一さんは、パソコンを操作できていた平成二十一年十二月まで、毎日日記を書いていた。その日記には毎日決まって「無事終わる」と記していた。最初は気にとめていなかった繁子さんであるが、次第に、そこには深い意味があると感じるようになったという。

「毎日の日記を見ると、無事終わる、今日も無事終わる。毎日それの繰り返し。いろんな意味がありますよ、取り方ひとつで。そのときは毎日同じことばっかだねって言いよったけど、いつ頃だったからか、あるときからそげ思うようになったです。やっぱり無事終わるってことには、深い意味がある、そう思うようになってね。本人はどげな意味で書いたかは分かりませんけども」。

 不自由なからだで一文字一文字、毎日「無事終わる」と打ちつける行為に、いったいどんな気持ちを刻み込んでいたのか。そしてコミュニケーションが難しくなった現在、修一さんは日々どんなことを思っているのか。繁子さんは今もそうした思いの重みを受けとめている。

9.繁子さんの感謝

 ALSという病気にあっては、できることとできないことがあり、できないことはできないという。そうした条件のもとで一生懸命やってきた結果、自宅での療養生活を持つことができたのは恵まれたこと、「運が良かった」ことだと繁子さんは感じている。

「ここの主ですけんね。主人。もうどうしようもなければ、どうしようもないけど、できるかぎりは家におってもらいたいって気持ちがあったけんね。みなさんそう思われる。でも、できることとできないことがあってね、それは。だけん私は、恵まれてここまでできた。ほんとにありがたいなと思っちょる。なかなかここまでみたくてもみられない方はたくさんおられる」。

 時期としては、子育てが終わって、しかもまだ体力があるときだったからこそ、自宅での介護に没頭することができたという。また、平成十三年に山陰道が開通したことも大きく、この道のおかげで入退院のたびに病院と自宅を往復することが可能になった。冗談で「お父さんのためにできた道だ」と話していたという。また、繁子さんは運転をしないため、病院まで通う手段に困ることがたびたびあったが、幸い入院受け入れ先の病院に困ったことはない。

 現在、修一さんは自宅に戻ってこられない状態であるが、それでも繁子さんが落ち着いて病院通いを続けているようにみえるのは、長い間、その時々にできることを精一杯やってきたからであろう。

「(自宅で)みるのは今しかないが。で、どうせ最後までみれえてことはできない。最後はもう、状況はいつまでもこのままじゃない。今うちの主人がこうなったときになって、いつかはこうなることは分かっちょったんだけども。でも、私は私なりにみっちりみられたけん、悔いはない」。

 この病気では、症状が一歩進行するたびに新たな出来事や状態に直面することもあって、その時々のことが大変だという。「忘れたことも半分以上ありますけど、でも、その山は一生懸命越えました。それこそ、その山を越えると、また次にという感じで」。いつもその時その時の「今」を大事にしてきた積みかさねこそが、「私なりにみっちりみられた」という繁子さんの実感に繋がっているのだろう。

10.ほかの患者さん・家族さんに対して

繁子さんは、いろいろな条件に恵まれて、修一さんを支えることができたと考えている。だから、家族構成や年齢など、それぞれ条件のちがうALS患者・家族の人に、同じ判断を押しつけることはできないと言う。

しかし一方で、繁子さんが場面場面で自分の心を決めるときには、条件がちがう人であっても、実際にALSという体験をした人の話が貴重な助けとなってきたという。とくに、修一さんの病名が告げられ、雲をつかむような状態の時に、気管切開をしないと決めた患者を数年間介護した人の話を聞いたことはそうだった。「ただその話を聞いただけでも私の判断は軽くなりましたよ。あの人はせだって(しなかったって)言われたけど、ほんならうちはやるわって。それを聞いたから、病気や介護のイメージができて、その判断ができた」。

大切なのは、他の患者・家族の話を聞いて、その上で最後は自分たちで判断をすることだという。「自分が思うようにまっすぐには来やせんせ。なんにも分からないけん、ほんに。あっちへふらふら、こっちへふらふら、いろんな話を聞きながら、最後にはやっぱし自分が判断せにゃいけんだけんね」。

ALSという病気が分かった最初は、情報がないととにかく不安で、出雲市の医大をはじめあちこちに出かけていった。ALS協会島根県支部の存在を知ったのはすごいタイミングで、平成十一年六月修一さんの病名告知があったその月、山陰中央新報の紙面の片隅に載っていた、島根県支部が今度新たに設立されるとの記事が、繁子さんの目に入ったのだという。

病気は突然、思わぬところにやってくる。「本読んだり、世間を知っている方はよう分かあけど、そういう方って珍しいですが。病気は現にどこにでもやってくるだけえね。なんだい分からんところに病気がやってくると、ほんに泣き寝入りするしかないですけども。やっぱり少しでも声かけてもらうと、また元気でますけえねえ。戸惑うことがいっぱいあってね」。

自分たちのこれまでを思い返しながら、続く患者・家族の方々を慮って、「ここまで来ればいいですけどね。ここまで来るのがなかなかたいへん」と語る繁子さんの言葉はやさしい。

【追記】

繁子さんにこのインタビューをさせていただいた翌月、平成二十六年十月に永島修一さんが他界されました。十七年間の療養生活を続けられてきた修一さんと繁子さんに心より敬意を表するとともに、修一さんのご冥福をお祈り申し上げます。


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