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「様々な出会いに支えられて生きる」松江市 景山 敬二

1月 13th, 2011 | Posted by admin in 作品コーナー

H18/5月発行の支部広報誌『JALSAしまね』に掲載


3月になって、我家のプランターの小さな椿の木も幾つか花を咲かせました。花ごとポトリと落ちるので嫌われる人も多いのですが、良く見ると落ちてなおその花弁は艶やかです。花弁が痛んできても、雄蕊雌蕊は凛としています。寺社の境内や山道などで、椿の絨毯が敷き詰められた景色に心奪われたことのある人もきっと多いでしょう。私達ALS患者は椿の花のように思えてなりません。

私が最初に身体の異状を自覚したのは、平成12年の秋、40歳の誕生日を迎える直前の頃です。当時、仕出店を自営していたのですが、包丁や箸をうまく使いこなせなくなりました。しかし今思い返すと、それ以前にも、大出刃包丁から中出刃に、さらに刃の薄いものにと、無意識のうちに軽いものを使うようになっていました。ですから、多くの方がそうであるように、発症がいつであるのかはっきりしません。難病中の難病といわれるALSに罹ったことは不幸な現実ですが、それでも、幸運だと感じられることが数多くありました。
13年8月、掌の肉が痩せてきたのに気付き、掛かりつけの内科医に相談し、神経内科の受診を進言され紹介状を貰いました。これが最初の幸運です。当時、神経内科の存在を知りませんでしたので、もし相談していなかったなら整形外科を受診していたでしょう。実際、多くの先輩患者が整形外科・耳鼻咽喉科を自身の発症部位によって受診し、異状なしと言われ病院巡りに無駄な時間とお金を費やしたと聞きました。その間にも進行するのですから、時間のロスが無かったことは有難いことです。

通院して検査を続けましたが、年末には店を閉め、翌14年から親戚の塗装会社で営業マンとして働かせてもらいました。これが2番目の幸運です。収入の安定は言うまでもなく、パソコンが使えるようになったのは、後の闘病生活に大きく影響しました。当時は、診断がつかず、「平山病(若年性一側上肢筋萎縮症)の疑い」とカルテに記されていました。聞き慣れぬ病名ですがその名の通り片側の腕だけの筋肉が萎縮する病気だと説明されました。おそらく、主治医はALSの懸念を持っていても決め手に欠け、そのような説明になったのではないかと思います。しかし時間の経過と共に、平山病では納得できない状況になり、自分なりにインターネットで調べ始め、程なくALSに辿り付きました。ALSなら自分の症状と一致します。そんな頃に主治医からより精密な検査をするために大学病院への入院を勧められました。そのときに「ALSではないかと思いますが・・・」と尋ねると「選択肢の一つですがそれを確定させるための検査入院です。」との返答でした。それを聞いて、自分の考えが間違ってないと確信しました。それから検査入院までの間に、ALS患者さんのホームページを見るなどして情報集めに時間を割きました。14年8月、3週間の検査の後退院前日に告知を受けました。医師からの説明内容はすべて知っていることばかりでしたので、落ち着いて聴くことが出来ました。やっと病名がついたとホッとしましたが、さすがにその夜は眠れませんでした。病室の天井を眺めながら「病気が自分の全てではない。個性の一部だと思おう。」「3~5年の命ならその時間を家族と濃密に過ごそう。」と考えました。当時、二人の娘は2歳と7ヶ月でしたから、介護の負担を考えると人工呼吸器の選択は出来ませんでした。前もって病気の知識があったから落ち着いて考えることが出来ました。ALSのような原因も治療法も解明されてない病気の場合、医師の告知の仕方、患者の受け止め方が後の闘病生活に大きな影響を与えます。また、告知を受ける頃は、比較的症状も軽いことが多く、何でも出来る貴重な時間です。そんな貴重な時間を絶望や不安を抱いてただ泣いて過ごすのでは非常にもったいない話です。今思うのですが、告知してすぐの患者を退院させるのではなく、何日か引き続き病院で病気のあらゆる情報を習得する時間を持つように出来ないでしょうか。私の場合、医師・ケースワーカー・療法士・保健士など各分野の専門家が一堂に会しての合同カンファレンスが開かれたのは、かなり病状が進んでからでした。このようなカンファレンスを告知の際に開いてもらえるなら、患者や家族は社会が支える体制があることを知り少しは安心できるのではないでしょうか。最近、緩和ケアに力を入れる病院が増えています。ターミナルケアでは末期がんをその対象として心と身体の痛みを取り除き、患者が人間らしく最期を迎えられるよう配慮するそうです。ALSの場合、告知の時にこそ緩和ケアが必要です。「楽に生きる」ためのものが。

16年5月いっぱいで退職しました。二年半の在籍でした。その間も緩やかに進行しましたが、会社の皆さんに病気とそれに対する私の考えを理解して頂いたお陰で快適なサラリーマン生活を送ることが出来ました。そしてその経験が、後日講演活動を行う原動力になったのです。

この年は災害の年でした。相次いで上陸する大型台風、新潟中越地震、そして年末にはスマトラ沖地震によるインド洋沿岸津波。自宅に居ますので、ニュース・ワイドショー等の報道を食い入るように見ました。そして一つの疑問が頭の中を支配し始めたのです。「さっきまで元気だった人が一瞬にして命を落とす。将来のあるはずの子供がその場に居たという理由だけで命を奪われたこの現実。それに対して、治療法もない難病の自分が生きているのも現実。この運命の違いは何だろうか。」新しい年は発症から5年目となる年です。その年を迎えて答えのような思いに至りました。「自分は生きているのではなく、生かされているのではないのだろうか。もしそうなら何のために。自分には出来ないことがたくさんあるけど、自分にしかできないこともきっとあるはず。それは何だろうか?」夜、目が覚めるたびに考え答えが出ました。「癌などと違い一般にはあまり馴染みのないALSを理解してもらうには、体験者が発信するのが一番良いのではないだろうか。理解が広がれば支援も受けやすくなるのではないか。そのためには人工呼吸器も装着して、その体験も発信しよう。」それまで頑なに否定していた呼吸器ですが、がらりと考えが変わり生きることを選択した訳です。その途端に、夜中に眠れなくなることも変な夢を見ることもなくなりました。告知を受けたときも病気の情報を充分に持っているつもりだったので、受容は出来ていると思っていましたが、今考えるとこの時ようやく出来たのかもしれません。

JALSA島根支部の石飛さんにこの思いを伝えると、早速島根大学医学部と島根リハビリテーション学院で話をさせてもらえる段取りをつけて下さいました。また、ほかにも職場・会合など色々な場で発言の機会を頂きました。会話が厳しくなる今年2月までの一年間で600人以上の方との出会いがありました。話を聴いて貰うことで自分も改めて気付くこともありましたし、進行する障害を受容する手助けにもなりました。なかでも、印象深かったのが島根リハビリテーション学院の学生さんとの出会いです。

4月、学院で理学療法学科2・3年生に話をしました。呂律の回らない言葉にもかかわらず、一生懸命聴きしっかり受け止めてもらった事を、後日受け取った感想文から感じました。なかには、当日体調不良で欠席したのに友人から話を聞いて書かれたものもあり、感激しました。4~6月には作業療法学科3年生の、10~12月には理学療法学科2年生の自宅訪問を受けました。難病患者の自宅という事で、最初は皆表情が硬かったのですが、話しているうちに笑顔が出てきます。私もそれを見てホッとします。「笑顔は究極の癒し」という事に気が付きました。程度の差はあれ、病気や怪我で医療機関に掛かっている者は不安を抱いています。そこで医療関係者に仏頂面やしかめっ面をされれば、治るものも治らないでしょう。話をして時間があると「どうして療法士を目指そうと思ったのか」尋ねました。自分や家族がリハビリを受けた事があったり、身近に療法士として活躍している人が居たり、動機は夫々ありましたが、皆、情熱を抱いている事が伝わりうれしくなりました。
一回の訪問に3~4人の学生を迎えました。ある回、バリアフリー化した我家に入ってすぐに、「何か違和感を感じる」と言い出した学生がいました。原因を探ってもらうと、6畳ほどの洋室に10ヶ所20口のコンセントがあるためとわかりました。改修当時、歩行も車の運転も可能で工務店との打ち合わせも自分でしました。頑なに呼吸器を拒否していた頃でしたが、設計段階でコンセントは多めにと注文していました。将来呼吸器や吸引器などに電源が必要という頭があったようですが、言動に矛盾があることに初めて気付きました。「生きたい」という本心に無理矢理蓋をしていたのかもしれません。何気ないところに患者の本音が出るようです。介護される方はそんなサインを見逃さぬようお願いします。

ふた昔前、詞に「現在、過去、未来」とある歌が流行りました。医療関係者や介護担当者が、患者の「現在、過去、未来」を患者と共有する事がQOLの向上につながると思います。現状を把握し(我々障害者は、自分の現状に目をつぶりがちで無理して悪化させる事も度々です。自分もそうでした。反省。)、過去の人生を語り・聴き、生きる目標を見つけ出す。そしてその目標のために生活上どんな工夫が必要なのか。

脚本家の倉本聰さんが、ある文章で「人は、他人から与えられると嬉しいものだ。だが、他人に与えるほうがもっと嬉しい。それが生きがいとなる。」というような事を書いていました。私は物理的に手渡す事は不可能ですが、想いを届けることは出来ます。そしてそれが、今生きるための心の支えになりました。

難病患者であり障害者でもある私達ALS患者は、家族はもとより、医療機関・福祉行政・地域社会など様々な支援なしでは生きていけません。そして自分に最適な支援を受けるためには、まず自分を理解してもらわねばなりません。

現在、まだ気管切開をしていませんがどうやらギリギリの所に居るようです。体調が優れないと非常に落ち込みます。言い知れぬ不安と焦燥感に襲われます。筋肉の萎縮と共に、心の振り子をぶら下げたロープも細くなったようで、わずかな風にも振り子が大きく揺れます。顔の筋肉も緩んだようで、含み笑いや声を殺して泣くという芸当が出来ません。少しでも可笑しいとやらしいほどの笑顔になりますし、泣くときは顔をぐちゃぐちゃにして子供の様に喉をヒクヒクいわせて泣きます。時々大泣きするとすっきりします。

「障害は不便だけど不幸ではありません」講演活動をしていて気付きました。また、出会う事で元気を貰いました。「動かない身体で生きる価値があるのか」告知直後は価値などないと思っていました。しかし今は違います。「生きていることにこそ価値がある」とわかりました。

私の病気は比較的ゆっくりですが確実に進行しています。これからも、新たな出会いを力に換えて、一日一日をていねいに生きようと思います。

平成18年4月10日



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