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会員さんのALS的日常 Vol.4

3月 1st, 2018 | Posted by nozomu in 作品コーナー

松浦和敏さん――島根県支部の原点を訪ねて

 日本ALS協会の島根県支部が設立されたのは1999年(平成11年)6月のことで、2018年には20年目を迎える。1999年での支部設立は47都道府県中22番目で、そもそもの人口が少ない島根県としては、かなり早い時期に立ち上げられたことになる。この島根県支部の立ち上げをリードしたのは、初代の支部長を務められた松浦弥生さんと、夫として弥生さんを支えた松浦和敏さんのご夫婦である。今回は、島根県支部が出発した当時のことを改めてお訊ねしたく、松浦和敏さんにお話をうかがった。(インタビューと構成・諸岡了介)

1.弥生さんのこと

 もともと中学校の国語教師として働いていた和敏さんが、弥生さんと出会ったのは赴任先の津和野のことであった。弥生さんはたいへんエネルギッシュな方で、結婚後、仁摩に移り住んでからは、4人のお子さんを育てながら農協でばりばり働き、さらにはお茶・お花・踊りなど、さまざまな活動を楽しむ凄い女性であった。和敏さんは、今も弥生さんに対する尊敬の念を隠さない。

 弥生さんがALSを発症したのは1988年(昭和63年)ごろ、49歳のときであった。最初はなかなか原因も判明しなかったが、医師から病気のことを聞いた和敏さんはたいへんショックを受け、しばらくのあいだ弥生さん本人にそのことを説明できずにいた。後に山陰中央新報紙がご夫婦のことを取りあげた記事に、和敏さんが弥生さんにALSという「治らない病気」であることを告げたときの様子がある。

 弥生に症状が出始めたのは1988年ごろ。同年、玉湯町内の病院に入院した。半年後、和敏は「会話ができるうちに」と告知を決意。病院から自宅に一時帰宅したのを機に、きちんとスーツに着替えてから、切り出した。「今まで一つだけうそをついたことがある。病気は大変な病気だ。これから先もずっと夫婦でいて、手伝うので頑張ってほしい」。二人はその日、涙が止まらなかった。和敏は翌年、妻の介護に専念するため、長年務めた中学校の教師の職を辞めた。(山陰中央新報「ひと模様――ALSと闘う」2004年5月26日記事)

 病名を告げられたこのときのことについて、弥生さんの方は次のような手記を残している。「来たるべき日がきた。号泣した。主人も号泣。いつかこんな日が来ると予測はしていた」。そして、「どのくらい時間が経っただろうか。主人の心配そうな、そして優しいまなざしにはっとした。私にとってこれ以上のことがあるだろうか」。
今になって和敏さんが語るには、弥生さんがいち早く立ち直ってくれたことで、自分も救われたという。弥生さんが多くの趣味を持ち、人づきあいが広かったことも、ALSになってから以降の人生を充実したものにする大きな助けとなった。とくに短歌については、手足の麻痺が進む中で最初はワープロを、次には文字盤や、「まばたき」による意思伝達法を駆使して制作を続け、短歌集の出版も行っている。「患者が楽しみを持つことは、周囲の人に対する救いにもなるんですよ。患者が楽しそうな顔をしていれば、まわりも安心できますから」と、和敏さん。2010年(平成22年)4月に弥生さんががんで亡くなるまで、和敏さんは24年のあいだ介護を続けたことになる。

2.「患者・家族の集い」から島根県支部設立まで

 ALSのような難病の患者・家族の集まりには、「矛盾」がつきものである。難病という大きな困難の中で、同じ境遇の人が集まることに意義がある一方、毎日毎日、自分たちの生活に手一杯で自由に外出もできないというのが当たり前だからである。そんな状況の中、どうして松浦さんご夫婦は島根県支部組織を作ろうと考えたのだろうか。

 30年前、ALSという病気は、世間ではほとんど認知されていなかった。症例の少ない難病だけに、医師にさえ具体的な知識や経験がなく、何を誰に相談したらよいものか、雲をつかむような状態であったという。こうしたぐあいに患者と家族は孤立した状態に置かれており、松浦さんご夫婦もその例外ではなかった。インターネットもまだ普及していない時代で、東京に日本ALS協会というものがあるらしいと聞き「104」に電話をして問い合わせたこともあったが、そのときは分からないとの返答があっただけであった。

 自分たち以外の患者についてほとんど何も知らないという状況の中で、和敏さんが衝撃を受けたのは、1994年(平成6年)に情報公開制度ができて、島根県下に約30名のALS患者がいるということが判明したときのことである。「5人や6人じゃない、30人も同じような患者がいるのだ!」という驚きは大きかった。

 この衝撃から、和敏さんと弥生さんの活動がはじまった。この年の12月に、和敏さんは知り合いの県議会議員を頼って、澄田信義知事(当時)のところへALS患者の療養状況の改善を訴えに陳情に出かけた。このことを取りあげた山陰中央新報の記事を通じて、ALS患者・家族どうしでの情報交換を呼びかけたところ、5人の家族から反応があった。お互いに、「うちだけじゃない、ほかにも同じ病気と闘っている人がいる」ということを知っただけでも、大きな一歩であった。

 さっそく翌年の年明けには、はじめての「患者・家族の集い」を松江市千鳥町の在宅福祉サービスセンターで開催するとともに、手製の連絡誌「がんばろうぜ」を作成・配付しはじめた(その紙面の一部は、『JALSAしまね』10周年記念誌に掲載されている)。このときはまだ日本ALS協会と直接関係はなかったが、ある意味では、ここから島根県支部がはじまったのだとも言えそうである。

 この「患者・家族の集い」から少しずつ人の輪が広がり、日本ALS協会島根県支部の設立にいたるのは、その5年後のことである。支部設立の準備の様子については、次のような新聞記事の記録がある。

 病院などで知り合った患者や介護者に声をかけ、4年前から不定期に「患者家族の集い」を開いている。しかし、10人集まれば上々。「案内状を送っても返事もない人が大半です。会って話すと皆、交流に飢えているのですが、あまりに心身ともにきつい生活。悲しいほどに余裕がないのです」。「参加できる人がほとんどいない支部に意味があるのか」。和敏さんは悩んだ。しかし「当事者が参加できない悲惨な状況だからこそ、始めることが大切」と山口県支部の仲間から励まされ、先月20日に準備会を開いた。集まったのは8人。他に20人から「入会希望」を聞いている。(読売新聞・1998年10月16日記事)

 1998年(平成10年)には、島根県下の7保健所に、難病患者の相談窓口である母子難病係(現母子・難病支援課)が設置された。これら県健康福祉部の後押しも得ながら、翌1999年(平成11年)6月27日には東津田町いきいきプラザ島根にて設立総会を開催し、日本ALS協会島根県支部が正式にスタートすることになった。設立総会への参加者は200名を超え、人工呼吸器と車椅子を自動車に乗せて、はるばる島根まで祝福に駆けつけてくれた患者仲間、福岡県の古江さんや大分県の本田さんたちのことは今でも語り草になっている。

 支部の設立とその後の運営に力を尽くしたのは、松浦さんご夫婦とともに二人を応援してきてくれた周囲の人たちで、とくに温泉津の新治さんは事務局長として約10年間ものあいだ、島根県支部の活動を支えた方である。和敏さんは、ご夫婦の療養生活についても、支部の活動についても、「ことばでは尽くせないほどたくさんの人にお世話になりました」と語る。

3.集まることの力

 和敏さんが強調するのは、組織の力というものの大きさである。支部ができる前、ALS患者に対する支援を求めに県知事に訴えたときも、丁寧に対応はしてもらっても、「あなた個人の問題でしょう」という感じでしか受けとめられることがなかった。ところが支部ができ、支部代表として県庁へ出向くと、向こうの姿勢がまったくちがってきたという。「はやい話がお茶が出るんです」。もちろん、これはお茶だけの話ではなくて、県の側が陳情の内容を市民団体からの訴えとして、より真剣に受けとめるようになったということである。「支部ができるとどれだけ大きな力になるか、痛感しました」。

 たとえば、かつては200万円もして購入するには負担の大きかった意思伝達装置の貸し出しについて、一度は県から「ダメ」と返答されたものの、ALS協会本部に問い合わせて再度情報提供をした結果、一転して「可能」となったということもあった。また、県の健康福祉部長さんも出席する支部総会で、保健師さんの任期が3年に固定されていて困ることを訴えたところ、その後任期が延びたこともあったという。このエピソードについて、実際どこまで総会での訴えが効いたものかは分からないというお話であったが、県の担当者や保健師さん自身も感じているような問題を、患者家族からの要望として改めて訴えることも大切にちがいない。

 支部の機関誌『JALSAしまね』にしても、会員だけではなく、保健所や関係者の方に、患者の生活の様子や難病支援という仕事の意味を理解してもらうのに役立っているという。「意思表示は最大のアピール」であり、患者や家族が困っていることや望んでいることを赤裸々に訴えることが大切であると、和敏さんは言う。それだけに、近年の支部会員数の減少は大きな心配事で、今後も会員増をめざしてほしいとのお話であった。

4.患者・家族の孤独を越えて

 和敏さんは、この20年間、島根県支部が県下のALS患者の「灯台」の役割を果たしてこられたのではないかと感じている。弥生さんがこの病気を発症した昭和60年代、世間ではALSという病気のことを知っている人は、ほとんどいなかった。和敏さんが支部のことを話すと、「ALSきょうかい?どんな宗教なんですか?」と聞く人までいたという。最近では認知度が上がり、ALSという病気の名前くらいはみな、聞いたことがあるようになってきた。これは全国数多くの関係者・協力者の方々の尽力の結果であるが、松浦さんご夫婦からはじまった島根県支部の活動も、その一端を担ってきたものだと言える。

 今回、このインタビューのために、和敏さんは愛車を飛ばして、お住まいの仁摩から、松江市内まで足を運んでくださった。鳴き砂で有名な仁摩の海岸で採れたきれいな石のお土産とともに、支部設立関係の新聞のスクラップブックを携えてきてくださり、今回紹介したものもその一部である。お借りしたそのスクラップブックの背表紙には、「孤独から支部誕生まで」というタイトルがマジックペンで記されている。

 ALSという病気はたしかに過酷であるが、その過酷さは、病気そのものからだけ発しているのではなく、患者や家族の生活が孤立しがちであることから生じている。患者・家族の集いや支部の活動を通して、和敏さんと弥生さんが訴えてつづけてきたことは、たとえもし病気が治らなかったとしても、孤立をすることなく、孤独感を癒やすこともできるはずというメッセージのようにおもわれる。和敏さんは支部の活動について、「そのときそのときはたいへんこともあったが、今となっては不愉快な思い出はあまりない」と語る。

 和敏さんは現在も、さりげないかたちで支部活動を支えつづけている。たとえば来月(2017年11月)には、広島で開催されるALS協会・中国ブロック会議まで、島根県の患者の声を代弁しに出かけてくださる予定になっている。もちろんのこと、毎年夏に開催される島根県支部総会にも出席されておられるので、みなさんもこちらに参加していただければ、いつものようにニコニコ顔をした和敏さんにお会いできるはずである。

松浦さんが最初に県下の患者家族に連携を訴えたときの記事 (山陰中央新報1994 年12 月5 日)

松浦さんが最初に県下の患者家族に連携を訴えたときの記事
(山陰中央新報1994 年12 月5 日)
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