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「ありのままを生きる」

10月 4th, 2011 | Posted by admin in 作品コーナー

景山 敬二

 私はよく「どうしたらそんな笑顔でいられるの?」と尋ねられます。もちろん嫌な顔もしますし、泣くことも多々あります。むしろ気分が顔に出やすいほうです。人前で外面が良いだけなのです。では、なぜ造ってまで笑顔でいるのか。

「笑顔は究極の癒し」講演や会合で度々使う言葉です。他人の笑顔はもちろん、自分が笑顔でいることが大切です。笑っている時は病気を忘れられるので、看護師さんやヘルパーさんの言い間違いなど些細なミスを見逃さないようにしてでも笑っています。粗探しをされる方はたまったものじゃないでしょうが、どうかご勘弁を。

患者・家族交流会でも、告知直後の家族さんから「うちの夫は告知後笑わなくなった。」と聞かされました。無理もありませんが、そんな方達の不安を少しでも取り除き、笑顔を取り戻すのが先発患者の務めと考えます。

かと言って、私に不安は全くないかと聞かれるとそうでもありません。今は指一本でも動かせるから良いものの、いつまでも動く保証はなく、目蓋さえ開けられなくなる日が来るかもしれない。TLS(Totally Locked in State=完全なる封じ込め)になるかもしれない。障害の固定しない、進行性疾患故の不安を抱えながら生活しています。告知以前は夜寝る時は部屋を真っ暗にしなければ眠れなかったのが、告知後は小さい灯りを点けなくては恐怖を感じてしまいます。閉所も怖くなりました。検査で何度もMRIを受けたのに、今は怖くて乗れません。CTならなんとか耐えられるといった有様です。余命宣告を受けてから死を意識するようになって、暗闇や密閉された狭い空間は死を連想させるのです。呼吸器を装着して声を失ってからは、意思の伝わらないTLSの状態を想像して怖くなるのです。そんな不安を振り払うために笑っています。

あるALS患者さんは「病気の完全なる受容など有り得ない」と仰っていますが、まさにその通りだと思います。ALSのような進行と共に身体機能を失っていく病気では、定まらない障害の受容とその更新も必要になります。振り子の揺れ幅が徐々に小さくなるように、患者は気持ちの一進一退を繰り返しながら、自身の置かれた状況に慣れていくしかないのです。ただ一つ振り子と違うのは、揺れが止まることが無いことです。そして心の振り子はほんのわずかな衝撃でも大きく揺れだします。私は告知時点で受容できているつもりになっていましたが、そんなに甘いものではありませんでした。人工呼吸器装着を選択した時もそれが受容だと思いましたが、今振り返るとまだまだ修行不足だったとわかります。そもそも、受容とはどんな状態になれば出来たといえるのでしょうか?医師が診断してくれるものではありません。患者の主観でしかありません。知識だけでは出来ないことは身を持って知りました。実際に過ごしている時間の中で「今、受容が出来ている。」と、感じるはずもなく、振り返って「そういえばあの頃からものの見方が変わったなぁ。」と、いうようなものだと思います。そして、いくつものことがあって、まるで雪解けのように徐々に見えてくるのです。強いて言うならば「ありのままに生きる」ことに気が付いた時が受容の時だと言えるのかもしれません。

 

H14年に確定診断を受けた後も、幸いなことに病気の進行はゆっくりで、17年は講演活動に力を注ぎました。しかし、9月頃から食事や会話でむせることが多くなりました。二、三言話しては咳込んでいたので非常に聞き辛かったと思います。それまでは原稿なしで話していましたが、18年からは原稿を用意し、話の途中でむせ始めたら妻に代読してもらいました。

むせに加え肺活量の減少と舌の拘縮で会話はますます不明瞭になってきました。17年3月からヘルパーには来てもらっていましたが、いずれ訪問看護にも御世話になるのなら、少しでも話せるうちから来てもらい自分のことを理解してもらおうと考えました。10月から週1回、来てもらうことになりました。進行と共に、ヘルパーも訪問看護も入ってもらう頻度が増え、呼吸器を着けた現在では両者の存在なしでは在宅生活は成り立ちません。

舌の拘縮は食事にも影響しました。口に入れた物を移動することが出来ず、噛み砕くことが出来なくなりました。特に18年の秋頃からひどくなり、玉子掛ご飯や豆腐、ヨーグルトなど限られた物しか食べられなくなりました。その中でも麺類は最も食べやすかったのですが、それでもあまり沢山は食べられません。訪問看護師にテルミール(高カロリー栄養調整飲料)125ccを勧められ飲んでいましたが、最高で68㎏あった体重も、18年2月には47㎏、5月45㎏、12月初旬には43㎏と減少する一方でした。当時は日赤へ3ヵ月ごとに10日間のレスパイトを兼ねた検査入院をしていましたが、12月初旬の入院の際に主治医から「肺活量は夏から落ちていないが、栄養面、特にたんぱく質とアルブミンが不足しています。体力のあるうちに胃ろう造設を考えましょう。」と、言われました。前々から呼吸器と共に考えておくようにと言われていましたが、元が調理師ということもあり、味を感じることに強いこだわりを持ち、呼吸器の決意が付いてからも胃ろうの決心は付かないままでいました。この時も「家族と相談してみます。」としか答えられませんでした。退院後しばらくは平穏に過ぎましたが、年末を控えた23・24両日、ベッドに横になると多量の痰が出ました。その後の経過を当時の日記の一部から紹介します。

 

25日、朝からだるく、食欲も無いのでバイタルチェックをしてみると、体温は平熱、SpO2も93%、ただ心拍数が130以上を示したので在宅の主治医に連絡し、日赤の救急外来へ行くように指示された。すぐに向かうとすでに主治医から紹介状が届いていた。胸のレントゲン・採血・心電図・検尿をし、結果が出るまで水分補給のため乳酸リンゲル液を点滴した。日赤の主治医が来られ、検査の結果肺に炎症があるので入院を勧められ緊急入院となった。病棟に移り、抗生剤・去痰剤・化膿止を点滴。38.4℃の熱が出、坐薬と氷枕で下げる。常用薬の他にアスベリン(去痰薬)が処方される。夜中に39.6℃の熱が出、坐薬と氷枕。

26日、採血4回・肺のCT撮影。右肺に炎症があり痰が溜まっている。『誤嚥性肺炎』と診断される。ワンランク強い抗生剤(メロペン0.5g)に替え、朝夕2回点滴する。体重測定、43.3㎏。夕方38.6℃の熱が出、坐薬と氷枕。左側臥位にすると痰が出るので、度々吸引してもらう。

27日、抗生剤の点滴で日毎に炎症も治まっていった。リハビリも始まり、PT(理学療法士)の呼吸リハの時には大量の痰が出た。

28日、伝の心を持ってきて貰い開いてはみたものの、一行にも満たないうちに疲れてしまった。

病院の食事がほとんど食べられないので、29・30日は栄養剤を点滴した。主治医と話し合い、誤嚥性肺炎を繰り返さないためにも年が明けたら早めのうちに胃ろうを着ける決心をした。

31日、早朝から抗生剤を点滴し、午前中に退院。ギリギリで年内に間に合った。

平成十八年は、バタバタして年末の雰囲気も無いまま幕を閉じた。

平成十九年は、穏やかな天気で明けたが、生活は大きく変わる年になりそうだ。

2日午後11時頃、ベッドに横になると激しく咳き込み、痰が数十分掛けて大量に出た。身体も硬直し、SpO2は92~3%、心拍数は160を超え、体温も37.7℃から数分後には39.4℃になったため救急車を呼んだ。日赤に着いて暫くすると、主治医も駆けつけて下さった。肺炎の再発で再入院となり、救急外来の病室に一泊した。酸素マスク(1ℓ)も当分着ける事になった。

3日、3日前までいた病室に戻った。肺のCT撮影で今度は左肺に炎症があるのがわかった。左側臥位ばかりで痰を取っていたため、左肺に流れ込んだか?肺炎の治療を優先するため絶食にし、0時から24時間掛けてビーフリード1000mlを1本点滴し、栄養と水分摂取となった。口にするのは薬を飲むためのヨーグルト1/2カップとお茶ゼリー数口だけ。抗生剤も朝夕投与する。

4日、今回の入院中に胃ろうを造ることを決めた。

5日、酸素マスクが外れる。リハビリ再開。

6日、空腹のせいか異常に匂いに敏感になる。

7日、伝の心を持ってきて貰い、以後日毎に車椅子に座っている時間が長くなっていった。胃ろうの手術が15日に決まる。覚悟はしたつもりだが、深い喪失感に苛まれる。まだ、これで誤嚥の恐れが減るという心境にはなれない。

8日、身体が楽になってきたら空腹感を強く感じるようになった。痰の切れをよくするため吸入(ネブライザー)を1日3回することになる。

10日、前日で抗生剤の投与も終わり、いよいよ胃ろう造設に向けた検査が始まった。

12日、採血、体重測定 40.7㎏、肺機能検査。

13日、肺炎が完治すると痰も無くなり、SpO2も97~8%を保つようになった。

15日、いよいよ手術の日。口腔ケアの後、3時前に呼び出しがあった。病室を出る時点から主治医が付き添って下さり、大変心強かった。途中でチラッと見えた空の青さが印象的だった。内視鏡室に入り、予定通り30分で終わったが、かなり疲れた。病室に戻ると、今度は痛みに襲われた。胃が動かないよう胃ろうの上下二ヶ所が縫い付けてあり、そこが引き攣るようにきりきりと痛む。坐薬2個と注射、さらに内蔵の動きを抑える注射も打って貰いようやく落ち着いた。留置した胃ろうカテーテルは、ボストン・サイエンティフィック社製、『ワン・ステップ・ボタン』。サイズは、シャフト径24Fr・シャフト長3.4cm。

16日、朝と夕方、胃ろうから白湯200mlを注入。薬も注入。おなかの痛みも随分引いたが、まだ胃が動き出すと激痛が走る。一日ベッド上で過ごすがリハビリがあったので幾分かは身体も楽になった。抗生剤を点滴。

17日、朝夕、エンシュア200ml+白湯100mlを注入。点滴による栄養補給もアミグランド500mlになる。抗生剤。体位交換や咳、あくび、声を出して笑う時に痛む。夕方、注入の指導。車椅子にも数時間座る。この日で点滴も終わった。

18日、朝夕、エンシュア200ml+白湯200mlを注入。空腹時胃が動くと痛む。

19日、朝昼夕、ラコール200ml+白湯200mlを注入。肺のCT検査。ST(言語聴覚士)のリハビリでプリン1個を食べる。久し振りに甘いものを口にする。CTの写真を見せてもらい、肺炎がきれいになっていると説明を受けた。

20日から注入がラコール400mlになった。

22日、抜糸。咳をしても体をひねっても痛みを発することは無くなった。どうやら痛みの元は糸だったようだ。これで胃ろうの処置は全て完了。極めて順調。口からどれ位食べられるか評価のため、STとチキンラーメンミニカップを食べた。20分足らずで麺を完食。久し振りの塩味、喉ごしが堪らなく旨かった。

26日、体重測定 41.3㎏。胃ろう造設前より1㎏増えた。

2月3日、退院。

 

栄養や水分補給、服薬は胃ろうから注入し、口からはお楽しみで食べることにしました。調子が悪ければ食べる必要がないのでとても楽です。あれだけ食べることにこだわっていたのに、さすがに体重が40㎏を割りそうになるとそれどころではありません。月に一度の日赤での診察時に血液検査をすると、不足していた蛋白質とアルブミンの数値も改善していました。その後の二年間の体重は41㎏台~43㎏台で増減を繰り返しました。嗅覚はますます敏感になりました。もともと煙草の臭いが嫌いでしたが、家の外で吸っている紫煙にも反応します。ホウレン草など灰汁の強い野菜をゆがいたり、炊飯の匂いに胸がムカつく様になりました。

栄養面の心配はなくなりましたが、肺活量の減少からか痰を自力で出し難くなりました。日中は座って過ごしていましたので、夜、ベッドに寝ると吸引することが多くなりました。特に花粉症のシーズンと台風が近づいた時は増えてきます。ただ、口からの吸引はする方もされる方も苦痛を伴い、痰が喉許まで上がらねばスッキリとは取れません。風邪もひきやすくなりました。肺活量がH19年5月は1,300cc、11月1,000cc、20年2月850ccと低下に歯止めが掛りません。20年の1月と7月に緊急入院しました。1月は軽い気管支炎で、さほど問題はありませんでしたが、7月には初めて呼吸苦を味わいました。当日の日記より。

 

23日、朝の注入後にむせ始めベッドに移って吸引する。午後のシャワー後にもむせ、吸引。夜、バレーの練習から帰った子供達と二言三言話した途端にむせ始めベッドに移って吸引する。痰はそれほどないが咳込みが治まらず、時間と共に息苦しくなった。熱はないが、SpO2が80%台前半まで落ちたので主治医と訪問看護ステーションに連絡。アンビューバッグを試みるがタイミングが合わないのか余計に苦しくなる。SpO2は71%まで低下。ほどなくして、訪問看護師と主治医が駆け付けてくれ、車椅子で日赤の救急外来へ向かった。酸素マスク(3ℓ/分)を付けると徐々に楽になり90%まで上昇。日赤の主治医もすぐに来てくれ、乳酸リンゲル液点滴、血液検査、CT、心電図、動脈血検査。肺に炎症はないが入院して様子を見ることになる。酸素量も1ℓ/分に下げマスクもカヌラ(鼻腔チューブ)になり、救外の病室に一泊。

 

10日間の入院でした。退院前に気管切開のメリット、デメリットや必要な入院期間を主治医に尋ねました。退院後、お楽しみの経口食をやめました。案外簡単にやめられました。今はたまに箸先に付けた吸い物を舐めたり、ごくわずかのケーキのクリームやアイスを舌にのせてもらったりして味覚を楽しんでいます。ただ、あまり味の濃い物は唾液が増えるので避けています。また、二度の緊急入院の経験から携帯用の酸素ボンベをレンタルし、吸引後、息苦しくなると時々使いました。

9月のレスパイトで主治医より「肺活量は590cc、一回換気量は300ccと限界を下回っている。体調の良い時は良いが、不調時には命取りになりかねない。なるべく早く、気管切開の手術を受けることを勧める。」いよいよ来たかという感じ。呼吸器装着の決意は出来ていましたし、呼吸困難に陥り意識不明での手術だけは避けたいと思っていました。昨年正月に肺炎で入院した時から、次に入院したら気管切開になるかもしれないと思っていたので、「よくここまでもったな」というのが正直な感想です。レスパイト退院一週間後に小学校の運動会が控えていました。次女は一年生でしたので、せめて今年だけは観てやりたい。「総て先生にお任せしますが運動会だけは行かせて下さい。」と返答しました。呼吸器を装着すれば、あの砂埃の中には行かれないと想像しました。

運動会当日は好天でした。二年前の長女が一年生の時に、久し振りの陽射しや風が嬉しくて無防備にしていたら、日焼けで軽い火傷状になり訪問看護師さんにこっぴどく叱られました。翌年、学校に相談すると快く対応して頂き、本部テント横に敬老席と称したテントを一張り張って下さいました。更にエアコン付きの休憩室も用意してありました。この年も同様で、吸引器と酸素ボンベを持参しましたが使わずに済みました。午後からは、保冷剤を首や腋に当てて体温上昇を防ぎました。日赤の主治医も度々様子を見に来て下さいました。開会から閉会まで無事見届けました。

10月7日の入院が決まりました。覚悟はしていましたが、それでも声を失うのは辛い。そんな心が折れそうになっている時に、テレビでこんな言葉と出会いました。「無有代者(むうたいしゃ 代わる者有ること無し)」です。大無量寿経の中の「身自当之、無有代者(しんじとうし 身、自ずから之に当たる)」という一節だそうで、人は苦しみや困難に出会った時、そこから逃げることは出来ないという意味だそうです。たとえば、我が子が病気や怪我で苦しんでいるとき、親が代わってやりたいと思ってもそれは出来ません。自分で乗り越えるしかないのです。気管切開すれば声は失うけれど痰の吸引も簡単になり、介護者も自分も楽になれる。メリットに目が行くようになり、気持ちが少し楽になりました。

入院当日、耳鼻咽喉科の診察があり10日に手術と決まりました。手術当日の日記より。

 

10日、いよいよ手術の日を迎えたが、不思議と落ち着いていた。夜も比較的良く眠れた。午後3時半、手術室へ。入る前に妻に「行って来るよ。」とニッコリするつもりだったが、やはり緊張しているのか引き攣った笑いを浮かべるのが精一杯だった。点滴のライン取りに若干時間が掛かったがスタートした。最初の局所麻酔がものすごく痛かったが、暫くすると感覚が無くなる。首をのけぞらせた姿勢だったが、頭もとのNsが表情を見ながら吸引してくれたので苦しくはなかった。ジジジという音と共に喉にかすかに熱を感じる。レーザーで焼いて止血をしていたと後日わかった。甲状腺を左右に分けたところで痛くなり、麻酔を追加。顔を覆った紙の隙間から壁の時計がさかさまに見えた。丁度4時半だと思ったその時、肺に冷たい空気が流れ込み咽る。同時に鼻と口も冷気を感じる。切開されたことが良くわかった。それまでは微かにうなり声を上げていたが、それも瞬時に出なくなった。気切口を縫合し、カニューレを装着して総て終了。準備室で痰を吸引して5時半頃病室に戻った。痰と唾が多く、吸引も頻繁でメラチューブも使用する。夜、麻酔が切れ痛み出したので薬をもらう。

 

まだ自発呼吸が残っていましたので、すぐに人工呼吸器装着とはなりませんでした。あれほど敏感だった匂いを感じません。空気が鼻を通過しないので当然といえば当然です。後日、退院して魚を焼いたり玉葱を刻んだりする刺激臭は感じました。一週間後に抜糸をし、その後しばらくは気切孔に出来る小さな肉芽をカニューレ交換の度に切除しました。10月下旬の検査で血中ガス濃度が高いことがわかりました。酸素は良く取り込んでいるけれど、換気が上手くいってないようです。いよいよ人工呼吸器を着けることになりました。短時間の装着から徐々に延ばしていき、12月8日から24時間装着になりました。

年が明け、1月19日に退院しました。新しい生活のスタートです。気管切開以前は日中は座って過ごしていました。夜、ベッドに寝ると言い知れぬ不安や恐怖心に苛まれ、夜中でも度々椅子に座らせて貰いました。座ると落ち着くのです。姿勢で呼吸が変わるとはその頃は思ってもいません。また、夢と現実の区別がつかず夜中に妻を起こし「押入れに誰か居る。」などと、ありもしないことを言って困らせたこともありました。本人には息苦しさの自覚が無くても脳が訴えていたのだと思います。もちろん今はありません。呼吸器装着以前は脈拍が安静時で100前後、PCを打ったりすると130以上になりました。今は安静時で80前後、上昇時で100前後に落ち着きました。少ない酸素を全身に送るために心臓に負担を掛けていたのです。装着後は体力がつき、一度も風邪をひいていません。体重も増える一方です。胃ろうを造っただけでは栄養も身に付かないことがわかりました。

 

H22年9月、保健師さんの紹介で、島根大学教育学部M准教授の訪問を受けました。M准教授は、共著に「どう生き どう死ぬか」があり、その中で終末期医療、在宅ホスピスケアを取材しまとめていらっしゃいます。話しの中で、呼吸器を着ける決心が付いたときの事を聞かれ、相次ぐ災害がきっかけだとこれまで通りの返答をした後、ふと、それは自分の主張を変える理由を探していただけではなかったかと気付きました。またしても人との出会いが気付きに変わるひと時でした。

「どう生き どう死ぬか」を電子ファイルで送って頂き、読みつつ、ALSの場合、終末期はいつだろうか?と考えました。

特定疾患医療受給者証において重症認定される時期になると、生命保険は高度障害が認められ死亡保険金が支払われます。住宅ローンも同様に弁済となり、保険上は死亡と同等になるこの時期か?

最終的な対処療法である人工呼吸器装着の頃か?

意思確認の取れないTLS状態になった頃なのか?

人工呼吸器装着を拒否した場合は、確かに呼吸筋が麻痺すれば死期は確実に近づいてきています。しかし、人工呼吸器装着という対処療法が存在しているのですから、呼吸筋麻痺が末期とは決め付けられません。肺炎等の合併症がない限り、人工呼吸器装着で身体的にも精神的にも安定することは私自身が体験しています。一般的に人工呼吸器というとICUなどの重篤な状態を想像されるかもしれません。しかし、ALSにおいては終末期というよりむしろ安定期といえます。ただし、二十四時間体制の介護が必要となりますから、社会的な支援は欠かせません。

私の経験では、確定診断がつき余命宣告もされる告知の直後ではないかと考えます。比較的症状の軽いこの頃が一番精神的には不安定で、病気が進むにつれ心が安定していく傾向にあるようです。多くの患者さんの手記からも伺えます。やはり、不安と混迷が渦巻く告知直後の時期に、末期がん患者への終末期医療に相当する緩和ケアが必要と思います。

告知時には長女の小学校入学も見届けられないのかと、あきらめていました。しかし今年4月には、修学旅行のお土産を受け取ることが出来ました。つくづく、生きていて良かった、生きていることは素晴らしいと感じています。家族をはじめ、医療・介護・福祉関係の皆様、私に関って下さる皆様、出会った皆様に感謝しつつ、これからも自分にしか出来ないことを探していこうと思います。

平成23年9月

*日記の部分は、当時、体調が快復後に記述したので、薬剤名などに誤りがあるかもしれません。


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