会員さんのALS的日常 Vol.3 ―― 田中文江さん・琢夫さん
出雲市の街中を流れる高瀬川沿いはサイクリングロードとなっているが、平成28年9月、その道に面したところにある田中さんのお宅を訪ねた。お宅の向こう側に広がる水田が、ちょうど実りの時期を迎えていた頃である。
田中文江さんは、平成14年にALSを発症し、現在も自宅にて療養生活を送っている。この度お話を伺ったのは、妻である文江さんを14年間に渡って支えてきている田中琢夫さんである。ALSといえば多くのケアが必要な難病であるが、琢夫さんの口ぶりはいつも穏やかで、過去のご苦労について尋ねたときでさえ、多くを語らず淡々と、「いろいろありましたけどね」とだけ笑っておっしゃるような方であった。そうした言葉の裏にある琢夫さんのお気持ちを、想像しながら読んでいただければ幸いである。(インタビューと構成・諸岡了介)
1.発症とそれからの経緯
ALSという病気の進み方は人によって大きく異なるが、文江さんの場合、進行はとても早かった。最初、症状に気がついたのは、工場での仕事のときであった。手に力が入らず、流れ作業の動きに追いつかないようになったのだという。またその後には、自然に話をすることができなくなってきた。
体の変調に気づいて病院で診察をしてもらったが、どうにも原因が分からないというので、いくつかの病院を訪ねることになり、ようやく大学病院で、ALSという病名を聞かされた。もっとも、初めて聞く病名に、琢夫さんもなかなかピンと来なかったという。ALSがたいへんな難病であることが分かったときの心情については、「私より、本人がショックだったかもわかりません」とのお答えであった。
その後、家の中で転倒をして足首を骨折したり、食事を飲み込むのが難しくなったり、症状が進んでいった。将来気管切開をするかどうかについても考えを固めなければならなかったが、当時ALSに関する情報が乏しい中で、すぐに決断をするというわけにはいかなかった。先輩患者さんに話を聞いたりしながら、最終的には、まだ50代で若いのだからと気管切開を行うことに決めた。実際に気管切開をしたのは、発症から2年半が経った平成16年9月のことで、胃ろうの設置と同時に行った。
2.一番たいへんだった時期――気管切開直後
文江さんはこれまでずっと、在宅ベースでの療養を続けてきている。発症した当時では、気管切開した後も在宅で暮らすALS患者は例外的で、出雲市では「ほとんど第一号みたいな感じ」であったという。それまで琢夫さんには介護に関わった経験はなく、周囲の人たちも心配をして、在宅療養の体制をつくるのにケアマネさんや行政の方、みんなが手伝ってくれたという。「なんだいわからんでしたから私は。ずぶのしろうとで」。
琢夫さんが仕事をしていた間は、朝から夕方5時まではヘルパーさんに来てもらって職場へ出て、帰宅すると介護に当たる、という生活パターンであった。定時で終わる仕事だったので、それが良かったという。
下の世話や、あるいは他の家族との関係など、やはり介護生活にはたいへんなこともあった。たん吸引が必要になったときには、看護師さんに泊まり込みでやり方を指導してもらって、一から練習をしたそうである。もちろんそうした処置をすることに不安もあったが、「見切り発車じゃないけど、なんとかなるさっていう、最後はね、もう」。
一番たいへんだったのは、気管切開をした直後だったという。たん吸引をする回数が多く、唾液についてもガーゼの種類やあて方をいろいろ工夫したが、なかなかうまくいかなかった。その後次第にたんや唾液の量が減っていき、今では2時間おきのたん吸引で済むようになって、当初に比べればだいぶ楽になったのだという。
また、長期間にわたる在宅療養生活の中には、ピンチのときもあった。平成20年、琢夫さんが胃がんを患ってしまったのである。琢夫さんが手術入院をするあいだ、文江さんが入ることのできる病院を探したが、なかなか見つからず、最終的には松江市鹿島町の病院が受け入れてくれることになった。結局、琢夫さんの入院療養は三ヶ月に及んだが、幸いその後健康を取り戻して今日に至っている。
3.コミュニケーション手段とケア体制
かつては、レスパイト入院(ショートステイに似た、一時的な入院)をすることもあったが、最近はその病院が受け入れをしてくれなくなってしまった。それで別の病院にレスパイト入院をしてみたが、文江さんがよくわからない原因で心肺停止状態に陥るという恐ろしい出来事があり、それ以来入院はしていない。
ナースコールを押せない人は受け入れないという病院もあり、ALS患者には非常に厳しい話である。入院ができたとしても、やはり困るのはコミュニケーションで、どこが痛いといったことも、なかなか伝えることができない。入院して数日後、病院の方から琢夫さんにSOSの電話がかかってきたこともあった。
病気の進行につれて、コミュニケーションのやり方は変わってきている。最初は文江さんが直接、「伝の心」を使ってマウス入力を行っていた。マウスが動かせなくなった後は、エアバックセンサーを使いはじめたが、平成20年ぐらいからそれも難しくなってしまった。しばらくは、文江さんが眼球を動かすのに合わせて代わりにスイッチを押していた時期もあったが、今は、顔の表情や目元の合図でイエス・ノーだけを伝えるようなしかたである。
現在はもっぱら自宅で療養をしているが、日中9時から15時の間はヘルパーさんが入って、夜間はお子さんお二人が手伝ってくれるという体制である。そのほかにも、医師、看護師、訪問リハビリ、訪問入浴といった人が定期的にケアに当たっており、長年ここに通っている方は、文江さんのこともよく知ってくれている。
4.週に一度の外出
自宅療養を続けている文江さんだが、ずっと家にこもっているわけではなく、週に一度は琢夫さん、ヘルパーさんの三人で散歩に出るという。外出用に改造した車いすに乗り、吸引器やアンビュー(予備の手動式人工呼吸器)を携えて、家の周りを45分ほどかけて散歩する。人工呼吸器を着けたからといって、出かけられないわけではない。ヘルパーさんが協力的であることに、「ありがたいこと」と琢夫さんは感謝している。文江さんは花が好きで、春には近所に咲いている桜を訪ねる。また昨年は、フラワーパーク「花の郷」にも足を延ばした。
ただ、残念なことに昨年の9月、文江さんが肺炎を起こして体調を崩して以来、散歩はお休みの状態だそうである。今はしっかり体調を整えて、また外出できるようになるのを待っているところである。
[お話を伺って]
とくに印象に残ったのは、ご苦労のある療養生活の中でも、週に一度散歩に出て、花を愛で、生活を楽しんでいるご夫婦のようすであった。患者さんごとにそれぞれ条件があり、できることがちがっているのも確かではあるが、こうした田中さんご夫婦の姿は、きっと他の患者さんにも希望を与えてくれるのではないかと感じた。